佐藤 麻子様 2025年1月9日 sommyo 佐藤 麻子様 ■戒名 慈香院温室道麻大姉 じこういんおんしつどうまだいし 没年月日 : 平成26年1月1日 87 歳 5件のコメント ★故人の墓誌の追記になります。 ★大東亜戦争末期に栃木県宇都宮市の陸軍病院で経理関係の業務に従事していた時の追記です。 ★食料事情:缶詰類(特に鮭の缶詰)とバターが比較的豊かであった模様、陸軍病院内にも結核病棟があり患者に栄養を付けさせるための食糧であった模様です。 ★米軍戦闘機から機銃掃射を受けたことがあったとのことです。 ★病院建物への攻撃はなかった模様(病院と識別できるため)であるが、病院敷地には機銃掃射が何度かあったとのことです。 ★地上を機銃掃射する2本の土煙が遠方から自分の方向へ掃射された時は恐怖であったとのことです。 ★当時の戦闘機はプロペラ機で比較的低速、しかも低高度での掃射のため、搭乗員(パイロット)の顔が見えたとのこと。ヘルメット?を被り、サングラスを掛けていた米軍人の顔は生涯忘れ得ないと語っていました。 ★世界中で紛争が絶えないところですが、現代日本が平和である有難さを感じます。 ★人種・性別・宗教・教育・門地・職業等により差別されることなく、世界の誰もが当たり前に平和で健やかに暮らせる時代が来ることを祈っています。 返信 故人の墓誌(聞き及んだ記憶の範疇)になります。 ★昭和3年(1928年)5月14日 栃木県上都賀郡小来川村(現在の栃木県日光市小来川)にて父『国三』母『ナカ』の二女として出生 ★7人兄弟(兄3人 姉1人 弟2人) ★家業は、『タバタ屋』なる屋号で、原木を材木商に売る仕事と聞き及ぶ。 ★大東亜戦争末期には、栃木県宇都宮市の陸軍病院で経理関係の仕事に従事していたと聞き及ぶ。 内地の陸軍病院だけあって、病院内の食料事情は比較的良かった模様 ★主要居住地=栃木県宇都宮市、東京都品川区、神奈川県川崎市、神奈川県横浜市港南区、横浜市磯子区 ★職歴=アマノ(金銭登録機メーカー)に勤務していた記憶がある。 主は自営業で長年に亘り自営業で生計を維持していた。 ★東北地方太平洋沖地震及びこれに伴う原子力発電所の事故による政令指定災害(東日本大震災)後の某日、横浜市磯子区の高齢者専用住宅で脳梗塞発症(震災及び余震等との因果関係は不明)、横浜市立脳血管医療センターで急性期治療を受け、安定期に入るも後遺症で『要介護4』認定、平成26年1月1日療養先の横浜市金沢区所在の『金沢中央医院』で逝去 ★平成24年円宗院住職様から受戒 ★葬儀地=横浜市港北区、北部斎場で火葬 ★当初の墓所は、大阪府大阪市浪速区、令和7年1月改葬(お骨仏として本寿院に収蔵) ★立身出世しなくてもよい、貧乏でも構わないから『人に迷惑を掛ける人間にだけはなってくれるな』が口癖でした。 兄(長男)がインパール作戦に従軍し、奇跡的に生還したと言っていた記憶がある。 インパール作戦=第15軍(軍司令官 牟田口廉也中将)/ビルマ方面軍/南方軍による兵站を蔑ろにした作戦で甚大な戦死者・病死者を出した作戦。 今日の日本の平和と繁栄が数多くの先人達の尊い犠牲の上に成り立っていることを感謝します。 ※以上、思いつくままに記憶の範疇での故人の墓誌になります(私もいずれ西方に旅立つ日が来るので、思考が比較的明瞭な内に墓誌として残すことにしました)。 返信 慈香院温室道麻大姉(俗名 佐藤麻子)のネット霊園にお越しいただきまして誠にありがとうございます。 墓の後継者がいない関係で墓仕舞いをされるお方も多いと聞き及んでいます。 当方も訳あって、この度、改葬の運びとなり、故人の受戒、通夜・告別式・焼骨で読経いただいた縁ある本寿院様のお骨仏様としてお祀りいただくこととになりました。 お骨の一部を仏様の胎内に収蔵し、余骨は、栃木県日光市所在の円宗院日光別院霊符山尊星王院「三蜜壇」に収蔵し、3年後に「さくらん墓」に合祀の運びとなります。 故人の生地が、現在の日光市であり、故人の父母が日光の聖地に眠っていることを鑑みますと喪主・祭祀承継者としても理にかなった供養と思い、令和7年1月ここに改葬させていただくことになりましたことをご理解いただきますよう宜しくお願い申し上げます。 なお、故人が生前に賜りました数々のご厚誼に対して、重ね重ね厚く御礼申し上げます。 返信 生前にご住職様から戒名をいただきました 返信 お越しいただきましてありがとうございます 返信 コメントを残す コメントをキャンセルメールアドレスが公開されることはありません。 ※ が付いている欄は必須項目ですコメント ※ 名前 メール サイト 次回のコメントで使用するためブラウザーに自分の名前、メールアドレス、サイトを保存する。 上に表示された文字を入力してください。 添付ファイル アップロードファイルの最大サイズ: 5 MB。 画像, 音声, 動画, 文書 をアップロードできます。 ここにファイルをドロップ
★故人の墓誌の追記になります。 ★大東亜戦争末期に栃木県宇都宮市の陸軍病院で経理関係の業務に従事していた時の追記です。 ★食料事情:缶詰類(特に鮭の缶詰)とバターが比較的豊かであった模様、陸軍病院内にも結核病棟があり患者に栄養を付けさせるための食糧であった模様です。 ★米軍戦闘機から機銃掃射を受けたことがあったとのことです。 ★病院建物への攻撃はなかった模様(病院と識別できるため)であるが、病院敷地には機銃掃射が何度かあったとのことです。 ★地上を機銃掃射する2本の土煙が遠方から自分の方向へ掃射された時は恐怖であったとのことです。 ★当時の戦闘機はプロペラ機で比較的低速、しかも低高度での掃射のため、搭乗員(パイロット)の顔が見えたとのこと。ヘルメット?を被り、サングラスを掛けていた米軍人の顔は生涯忘れ得ないと語っていました。 ★世界中で紛争が絶えないところですが、現代日本が平和である有難さを感じます。 ★人種・性別・宗教・教育・門地・職業等により差別されることなく、世界の誰もが当たり前に平和で健やかに暮らせる時代が来ることを祈っています。 返信
故人の墓誌(聞き及んだ記憶の範疇)になります。 ★昭和3年(1928年)5月14日 栃木県上都賀郡小来川村(現在の栃木県日光市小来川)にて父『国三』母『ナカ』の二女として出生 ★7人兄弟(兄3人 姉1人 弟2人) ★家業は、『タバタ屋』なる屋号で、原木を材木商に売る仕事と聞き及ぶ。 ★大東亜戦争末期には、栃木県宇都宮市の陸軍病院で経理関係の仕事に従事していたと聞き及ぶ。 内地の陸軍病院だけあって、病院内の食料事情は比較的良かった模様 ★主要居住地=栃木県宇都宮市、東京都品川区、神奈川県川崎市、神奈川県横浜市港南区、横浜市磯子区 ★職歴=アマノ(金銭登録機メーカー)に勤務していた記憶がある。 主は自営業で長年に亘り自営業で生計を維持していた。 ★東北地方太平洋沖地震及びこれに伴う原子力発電所の事故による政令指定災害(東日本大震災)後の某日、横浜市磯子区の高齢者専用住宅で脳梗塞発症(震災及び余震等との因果関係は不明)、横浜市立脳血管医療センターで急性期治療を受け、安定期に入るも後遺症で『要介護4』認定、平成26年1月1日療養先の横浜市金沢区所在の『金沢中央医院』で逝去 ★平成24年円宗院住職様から受戒 ★葬儀地=横浜市港北区、北部斎場で火葬 ★当初の墓所は、大阪府大阪市浪速区、令和7年1月改葬(お骨仏として本寿院に収蔵) ★立身出世しなくてもよい、貧乏でも構わないから『人に迷惑を掛ける人間にだけはなってくれるな』が口癖でした。 兄(長男)がインパール作戦に従軍し、奇跡的に生還したと言っていた記憶がある。 インパール作戦=第15軍(軍司令官 牟田口廉也中将)/ビルマ方面軍/南方軍による兵站を蔑ろにした作戦で甚大な戦死者・病死者を出した作戦。 今日の日本の平和と繁栄が数多くの先人達の尊い犠牲の上に成り立っていることを感謝します。 ※以上、思いつくままに記憶の範疇での故人の墓誌になります(私もいずれ西方に旅立つ日が来るので、思考が比較的明瞭な内に墓誌として残すことにしました)。 返信
慈香院温室道麻大姉(俗名 佐藤麻子)のネット霊園にお越しいただきまして誠にありがとうございます。 墓の後継者がいない関係で墓仕舞いをされるお方も多いと聞き及んでいます。 当方も訳あって、この度、改葬の運びとなり、故人の受戒、通夜・告別式・焼骨で読経いただいた縁ある本寿院様のお骨仏様としてお祀りいただくこととになりました。 お骨の一部を仏様の胎内に収蔵し、余骨は、栃木県日光市所在の円宗院日光別院霊符山尊星王院「三蜜壇」に収蔵し、3年後に「さくらん墓」に合祀の運びとなります。 故人の生地が、現在の日光市であり、故人の父母が日光の聖地に眠っていることを鑑みますと喪主・祭祀承継者としても理にかなった供養と思い、令和7年1月ここに改葬させていただくことになりましたことをご理解いただきますよう宜しくお願い申し上げます。 なお、故人が生前に賜りました数々のご厚誼に対して、重ね重ね厚く御礼申し上げます。 返信
★故人の墓誌の追記になります。
★大東亜戦争末期に栃木県宇都宮市の陸軍病院で経理関係の業務に従事していた時の追記です。
★食料事情:缶詰類(特に鮭の缶詰)とバターが比較的豊かであった模様、陸軍病院内にも結核病棟があり患者に栄養を付けさせるための食糧であった模様です。
★米軍戦闘機から機銃掃射を受けたことがあったとのことです。
★病院建物への攻撃はなかった模様(病院と識別できるため)であるが、病院敷地には機銃掃射が何度かあったとのことです。
★地上を機銃掃射する2本の土煙が遠方から自分の方向へ掃射された時は恐怖であったとのことです。
★当時の戦闘機はプロペラ機で比較的低速、しかも低高度での掃射のため、搭乗員(パイロット)の顔が見えたとのこと。ヘルメット?を被り、サングラスを掛けていた米軍人の顔は生涯忘れ得ないと語っていました。
★世界中で紛争が絶えないところですが、現代日本が平和である有難さを感じます。
★人種・性別・宗教・教育・門地・職業等により差別されることなく、世界の誰もが当たり前に平和で健やかに暮らせる時代が来ることを祈っています。
故人の墓誌(聞き及んだ記憶の範疇)になります。
★昭和3年(1928年)5月14日 栃木県上都賀郡小来川村(現在の栃木県日光市小来川)にて父『国三』母『ナカ』の二女として出生
★7人兄弟(兄3人 姉1人 弟2人)
★家業は、『タバタ屋』なる屋号で、原木を材木商に売る仕事と聞き及ぶ。
★大東亜戦争末期には、栃木県宇都宮市の陸軍病院で経理関係の仕事に従事していたと聞き及ぶ。 内地の陸軍病院だけあって、病院内の食料事情は比較的良かった模様
★主要居住地=栃木県宇都宮市、東京都品川区、神奈川県川崎市、神奈川県横浜市港南区、横浜市磯子区
★職歴=アマノ(金銭登録機メーカー)に勤務していた記憶がある。 主は自営業で長年に亘り自営業で生計を維持していた。
★東北地方太平洋沖地震及びこれに伴う原子力発電所の事故による政令指定災害(東日本大震災)後の某日、横浜市磯子区の高齢者専用住宅で脳梗塞発症(震災及び余震等との因果関係は不明)、横浜市立脳血管医療センターで急性期治療を受け、安定期に入るも後遺症で『要介護4』認定、平成26年1月1日療養先の横浜市金沢区所在の『金沢中央医院』で逝去
★平成24年円宗院住職様から受戒
★葬儀地=横浜市港北区、北部斎場で火葬
★当初の墓所は、大阪府大阪市浪速区、令和7年1月改葬(お骨仏として本寿院に収蔵)
★立身出世しなくてもよい、貧乏でも構わないから『人に迷惑を掛ける人間にだけはなってくれるな』が口癖でした。 兄(長男)がインパール作戦に従軍し、奇跡的に生還したと言っていた記憶がある。 インパール作戦=第15軍(軍司令官 牟田口廉也中将)/ビルマ方面軍/南方軍による兵站を蔑ろにした作戦で甚大な戦死者・病死者を出した作戦。 今日の日本の平和と繁栄が数多くの先人達の尊い犠牲の上に成り立っていることを感謝します。
※以上、思いつくままに記憶の範疇での故人の墓誌になります(私もいずれ西方に旅立つ日が来るので、思考が比較的明瞭な内に墓誌として残すことにしました)。
慈香院温室道麻大姉(俗名 佐藤麻子)のネット霊園にお越しいただきまして誠にありがとうございます。
墓の後継者がいない関係で墓仕舞いをされるお方も多いと聞き及んでいます。
当方も訳あって、この度、改葬の運びとなり、故人の受戒、通夜・告別式・焼骨で読経いただいた縁ある本寿院様のお骨仏様としてお祀りいただくこととになりました。
お骨の一部を仏様の胎内に収蔵し、余骨は、栃木県日光市所在の円宗院日光別院霊符山尊星王院「三蜜壇」に収蔵し、3年後に「さくらん墓」に合祀の運びとなります。
故人の生地が、現在の日光市であり、故人の父母が日光の聖地に眠っていることを鑑みますと喪主・祭祀承継者としても理にかなった供養と思い、令和7年1月ここに改葬させていただくことになりましたことをご理解いただきますよう宜しくお願い申し上げます。
なお、故人が生前に賜りました数々のご厚誼に対して、重ね重ね厚く御礼申し上げます。
生前にご住職様から戒名をいただきました
お越しいただきましてありがとうございます